2015年5月13日水曜日

第3回:業界の常識に縛られないバー経営者

身近な人の生きざま論、第3回はバー経営者の奥田景介(おくだけいすけ)氏。

彼は業界の常識に縛られないバー経営者である。


一般的なバーとはだいぶ違う、奥田氏のバーの特徴

・外の通り沿いから看板が目立つ
(普通のバーは看板が目立たないのが常識)
・店内が明るい
(普通は店内は薄暗いのが常識)
・従業員の制服が水玉模様
(バーテンダーは目立つ服がご法度なのが常識)
・BGMが大きい
(普通はジャズなどの静かなものが多い)
・マスターがガンガン話しかける。時には大きな笑い声も。
(普通のバーは高い声&大きな声は禁止)
・おすすめの他店のバーをお客様に積極的に紹介する
(普通は積極的にバーの紹介はしない)
・従業員は未経験であろうが就労初日にカウンターに立たせ、時にはカクテルを作らせたりする。(注意:ただしお客様に提供できるレベルでなければ出さない)
(普通は初日は何もさせず、見て学ばせる)


なぜそれほどまでに業界ルールに縛られないのか、その想いは何か?
その疑問を探りながら見える、奥田氏の歩んだフツーとはちょっと違う人生。彼から学ぶ、直感で人生を選択する生き方。
今回は、国際色豊かな面も覗かせるユニークな奥田氏の生きざま論を取り上げます。

自分のお店を開いてみたいという人、海外に住んでみたいと思っている人、そしてレールを外れてしまった人生に絶望している人のヒントになるかもしれない内容です。

〜忙しい人のための、奥田氏の生きざま3要点〜
・大人って必ずしも正しくはない。時には親であっても大人を疑う。
大人は必ず正しい事を言っているとは限らない。大切な事は自分で考えよう。
・なんとかなる。世の中、なんとかならない事って意外と少ない。
悪い予測ばかりしていても仕方ない。やりたいことをやる理由を考えよう。
・「いまそこにあるルールが必ず正しい」とは限らない。
様々な価値観の人々と出会い、ルールはひとつではないと知る。新しい可能性はルールの外にある。



001 / 005:相手の顔色を伺う性格だった幼少時代。ママ友に大人気。


奥田氏は1981年3月14日生まれ。神奈川で生まれ、3歳の時に親の転勤の都合で静岡に移住する。

小学生時代は内気であり、相手の顔色を伺って生きてきたという。人に嫌われることが怖かった。
「小学生の時、クラス内でいくつかの班を作るわけですが、僕のクラスでは班長が班員を選択する形式だったんです。もしも嫌われ者なら、そういう時に最後までどの班長にも選ばれず残っちゃいますよね。僕はそれをすごく恐れてて、いつも班長と仲良くしてました。「僕を班員に選んでね」って感じで」
子供ながらに、どこか大人のような気の使い方をしていた。友達の家に遊びに行った時にも気を使うことが多かったことから、友達の母親たちからとても評判が良かったという。
「ママ友にモテましたね〜。「なんて気が利く子なんだ」って感じだったと思います」
とにかく、近所では良い子という評価であった。

やがて中学に進学。奥田氏曰く「ヤンキーが多かった」学校だったという。小学生時代は班長に気に入られようと取り繕っていたが、中学ではたまたま学校のボス的な人物と仲が良かった。そのおかげでいじめの標的にはならなかった。
「高校までは、内気で保身のために動く感じの僕でした。自分で振り返っても、この頃までの自分は好きじゃないですね」


002 / 005:高校時代はモテる努力するも撃沈→その努力が専門学校時代に実を結ぶ


高校は普通高校に進学する。
本当は工業系か商業系への進学を希望していたが、当時絶対に逆らえない存在であった父親に「大学進学を見据えて普通高校に行け」と言われたのである。

そんな中でも高校時代を楽しく過ごそうと思った奥田氏。女性にモテたほうが楽しいに決っているというシンプルな発想で高校デビューを企む。モテるためにはどうするべきかを研究するため、ポパイやメンズノンノといったファッション誌を読み、当時、仲間内では誰もやっていなかったスノーボードやビリヤードにいち早く取り組んだ。

「クラスで一目置かれる存在になりたかったんです。もしクラス内でスノーボードの話題になった時、ここぞとばかりに「俺もうやってるよ」って言えたらかっこいいと思って、スノボとかを誰よりも早くやってたんですよ」
女性との関係だが、"女子を好きになる→告白する→振られる"を繰り返した。高校3年間で結果は全滅。全て断られてしまう。友人らからは「すぐ告るな」と窘(たしな)められる。


「高校時代はフラレてばっかでした。高校時代に同じ名前の女の子が3人いて、彼女ら3人に告りましたが見事に全員に断られました」
高校時代の奥田氏は内気な性格を払拭しようとしていた。しかし思うような結果は得られなかった。一目置かれるような存在にもなれず、「奥田はチャラい」という評価までされてしまった。


高校卒業後は地元の情報系の専門学校に進学する。

Q:あれ?大学進学するんじゃなかったの?
「実は高2の夏に、父親が急に会社を辞めて独立したんです。それで父親から高校卒業したら就職しろって言われたんです。行きたい大学があったのに」
Q:せっかく大学のために嫌々普通高校に進んだのに…
「この時はじめて大人を疑うことを知りましたね。大人って必ずしも正しくないんだなって事が分かりましたよ」

今までは逆らえなかった父親だったが、この時の父の発言に、人生ではじめて反発した。お金は自分で出すから、自分の道は自分で決めさせて欲しいと言ったのだ。

そうして奥田氏は地元の情報系の専門学校に進学する。

奥田氏はWindows 3.1の頃からパソコンを使い、中学時代はプログラムを組んでゲームをやっていたほどのヘビーユーザー。パソコンがまだまだマニアの機械である頃からパソコンに触れていたため、自然と情報系の学校へ進学したのである。

「父親と一悶着が無ければ、情報系の大学へ進みたかったんですけどね。でも大学は無理だから実家から通える地元の専門学校。あと、ITバブルが始まった頃でもあり、これから情報系が儲かるぞって世間の雰囲気もありました。自分のやりたいようにするにはお金が必要だ、儲かる仕事をするべきだと思ったんです。つまり、半分やりたい事、半分お金が無いから仕方なく、って感じでの進学だったんです」

専門学校時代では初のモテ期が来た。
「高校時代モテるための努力がここで実を結びました。情報学部内では女性に対して消極的な人が多かったですね。そのせいもあってチャラかった僕はすごくモテた。週2、3回のペースで合コンもやってました」

「あと、どうしても彼女を作りたかった理由があったんです」
進学の件で両親といろいろあって顔を合わせるのも嫌だったという奥田氏。とにかく家に帰りたくなかった彼は、泊めてくれる彼女を探していた。
「当時アルバイトも3つ4つやってました。一人暮らししてる彼女の家に泊めさせてもらったことが度々あります。とにかく実家には帰りたくなかったですね。バイトして遊びに行って、彼女の家で寝るっていう生活。授業は寝てばっかりでした」


003 / 005:就職&人生初の家族会議&退職&フリーランス


専門卒業後は地元のIT企業に就職。
それから2年半ほどして、人生初の家族会議を行う。両親から様々な金銭的問題をはじめて告げられた。「なぜこんな状況になってから話すのか?今まで身内に相談もせず、なぜそんな事を決めて報告するのか?」と思ったという奥田氏。耳を疑うような内容であったという。

このとき、家を出て行く決心をする。

「今の会社では給料的には自立できないから、転職を考えました。最初、肉体労働系の仕事を想定してたんですけど、上司に相談したら「仕事を回すから独立しろ」と言われました。そうして、退職してフリーランスになるんです」

家を出て一人暮らしをはじめ、フリーランスとして働き始めた奥田氏。
ここから海外に飛び出しては帰国する生活がはじまることになる。


004 / 005:仕事をやめてカナダに移住。やがて帰国・就職するもまた辞めてドイツとタイへ移住→現地で内定取るもやっぱり辞めて帰国


フリーランスとして3年ほど働いた頃、程よく貯金もたまってきた。海外で過ごしてみたいという夢を実現したいと思うようになり、仕事をやめた。1年ほど、カナダのトロントへ留学する。

▲カナダ・ホワイトホースにて。

Q:なぜトロントへ?
「前に北海道旅行した時に寒い地方が好きになったんです。僕の住む静岡って年中雪も降らない地域だから、間逆な環境にすごく興味を持ったんです」
Q:ん?なぜトロントへ?他の寒い国は候補になかったの?
「カナダの国旗のデザインが気に入ってトロントに決めたんです」
Q:すごくいい加減に決めましたね。
「うん、いい加減。感覚的に選びましたよ」

トロントに移住後は語学学校に通うも1ヶ月で行かなくなり、残りは寿司屋で働く。ちなみにトロントに行ったばかりの時は英語がさっぱりだったという。
「How are you?(元気かい?)の意味も分からず、YESとNOのみで頑張りました」

「語学学校で出会った韓国人の女の子の事を好きになりましてね、彼女と話がしたいと思って必死になって英語を勉強しました。電話するときは辞書を引きながらって感じで。モテたいって理由で何かをするっていうのは、学生時代とあんまり変わってないですね」

現地の寿司屋は、寿司シェフ募集のポスターを見て応募。高校時代にテイクアウト専門の握らない寿司屋でアルバイトしていた奥田氏。面接時に「経験者だ」と言ったら即採用となったのである。一応、嘘は言っていない。

ちなみにトロントでは奥田氏は「Jiro(ジロー)」と呼ばれていた。
Q:なぜJiroなの?
「イングリッシュネームです。僕は名前が「けいすけ」なんですが、外人は「い」が発音しづらいので、呼びやすいモノにしました」
Q:なぜJiroなの?
「語学学校で、隣の人が「太郎」って名前だったんですよ。だから自分は次郎にした。「太郎と次郎はトラディショナル(伝統的)な名前だ」と説明できるんでね」
Q:すごい理由で決めましたね。
「感覚で決めました」

トロント時代は食事と飲み屋に行きまくったという奥田氏。留学生は自炊する人が多い中、彼は節約しようとは思わなかった。「せっかくのトロントなのに節約するなんて、なにしに来たんだ?」と感じていたのだとか。距離的に近いニューヨークに遊びに行ったり、ホームパーティーに行ったり、オーロラを見に行ったりしていた。時には日本では有り得ないほどの広い公園でのびのびしたりと、トロント留学を大いに楽しんだ。


トロントから静岡に戻ってきた後は、派遣社員や契約社員としてIT関連の会社をいくつか渡り歩く。
「正社員は考えてませんでした。また海外行こうと思ってて、定時に帰れる派遣などを意図的に選んでました。そこそこ給料貰えて、夜バイトできる仕事をやろうと考えてたんです」
この時は高級ダイニングバーでアルバイトをする。「大学生のバイトが多いから知り合えたらいいな」という気持ちであった。大学生と知り合いたいという理由だけで、地元大学の近くのアパートに住むという行動も取る。
「バイト先ではいろんな学生さんと知り合えたけど、アパートの方はまったくの無意味でした(笑)」



▲ドイツ・ミュンヘンにて。

帰国から4年後。また仕事をやめて、今度はドイツに7ヶ月ほど滞在。理由はヨーロッパ人になってみたかったからだとか。しかし、現実は厳しかった。ミュンヘンは大変人気のある街で、まともにドイツ語も話せない日本人にはなかなかアパートを貸してもらえないのであった。さすがの奥田氏もドイツへの定住を諦めた。すると、ドイツが無理ならばと、今度はタイに移住した。
「タイならできるんじゃないか?ついでにタイなら金持ちになれるだろうなー」と思ったからだそう。

▲タイでの就活時に住んでいたマンション。すごく贅沢な暮らしだったとか。

タイに拠点を移し、就職活動を行う。見事現地の日系企業2社から内定を取る。しかし、いざ働くことを想像したときに、静岡の友達や家族に会えないことや、仕事の都合上向こう数年は日本に帰れないことが嫌になり「やっぱり静岡に住みてえな」と考え、内定を辞退した。

「僕はやってみてから考える派。就活やってみてからやっぱりやーめたって感じでした。本当、好き勝手生きてますね(笑)」

Q:それにしてもすごい人生ですね。
「すごいと言われてもピンとこないですよ。自分にとっては当たり前でしたから。僕は「なんとかなるっしょ、どうすればいいか考えよう」という言葉を大切にしているんです。世の中なんとかならないことってあるの?って気持ちです。思いついたことはやっちゃう。とにかくやっちゃう。そのせいか「でもさあ」「やっぱり」といった言葉が嫌いですね。やらない理由を考えたって仕方ないじゃないですか。やる理由を考えるべき。だから、(やりたい事が無茶であっても)なんとかなるっしょ、(やりたい事をやるには)どうすればいいか(行動を起こす手段を)考えよう、なのです」


005 / 005:バーテンダーに憧れ、バーを起業。


奥田氏がバーテンダーを志すようになったのは2003年頃。知人に連れて行ってもらったバー「コンブレ」に行ったのがきっかけであった。
「そのお店のマスターの接客が凄かったんです。例えば、次も飲みたいな〜って気持ちでグラスを空にすると「次は何にするか」と聞いてくるけど、もう帰ろうかな〜って思ってグラスを空にすると何も聞いてこない。他にも、帰るときの上着を渡す間も素晴らしく、ドアを開けてくてるタイミングも完璧。しかもよく見ると、人によって接客が違う」
「バーテンダーってかっこいいな、と思うようになったんです」

ちなみに「幼少時代の、相手の顔色を伺う性格がバーテンダーという職業にすごく合ってるので、今すごく役に立ってます(笑)」と笑顔で語っていた。

▲バーテンダー修行時代

奥田氏はその後静岡市内のバーで働いてバーテンダーとしての腕を磨く。昼間はシステムエンジニア、夜はバーテンダーという2足のわらじ生活が続くのであった。

ちなみにコンブレには初来店以来、2年ほど常連として通っていた。あるとき、人数の多いパーティーがあるから手伝ってくれと頼まれた事をきっかけに、1年間に4〜5回ほどお店の手伝いを行う。この手伝いの経験で「バーでアルバイトがしたい」と思うようになり、2足のわらじ生活がはじまった。
「アルバイトの経験は、ダイニングバーのホール兼ドリンク係を2年、バーでバーテンダーを1年、別のバーでホール係を1年やってました。他にも、合間合間でいろんなお店のヘルプに入ってたりしてました」



▲奥田氏の愛読書「バーテンダー」城アキラ・長友健篩/集英社

そして2014年6月。フリーランスとして関わっていた案件が終了し、次の仕事が舞い込んだ。それは契約期間7年というものであった。この際、大いに悩んだ。
「いつからか、いずれバーを開業したいなと思ってはいたんですが、なかなか踏ん切りがつかなかった。そして次の仕事に7年も拘束されると思った時に、バーをやるなら今しかない、って思ったんです。7年もやれないなって思って(笑)」


「実はね、PCを使った仕事って苦手なんですよ」
Q:ええ?長いことPCに触れてきたのに?
「はい。例えば、コンピュータが行う作業が1〜10まであったとすると、1〜10の全てを指定してあげないと動かないっていうのも個人的に好きじゃない。あとシステムが止まったりするとお客さんは怒る。正常に動いてる時は特に何も無し。感謝とかはなくて「動いて当たり前」って感じ。当たり前のことなんですけどね」
Q:そういう環境が楽しくなかったということ?
「楽しくはなかった。実はこれらもバーをやろうって思った動機なんです」


2014年10月。「casual bar cache-cache」(カジュアルバー カシュカシュ)をオープンさせる。それは、業界のルールを破りまくる異端児的存在のような店であった。


改めて「カシュカシュ」の特徴を挙げる。

・外の通り沿いから看板が目立つ
(普通のバーは看板が目立たないのが常識)
・店内が明るい
(普通は店内は薄暗いのが常識)
・従業員の制服が水玉模様
(バーテンダーは目立つ服がご法度なのが常識)
・BGMが大きい
(普通はジャズなどの静かなものが多い)
・マスターがガンガン話しかける。時には大きな笑い声も。
(普通のバーは高い声&大きな声は禁止)
・おすすめの他店のバーをお客様に積極的に紹介する
(普通は積極的にバーの紹介はしない)
・従業員は未経験であろうが就労初日にカウンターに立たせ、時にはカクテルを作らせたりする。(注意:ただしお客様に提供できるレベルでなければ出さない)
(普通は初日は何もさせず、見て学ばせる)

などなど、カシュカシュ独自のルールを挙げればきりがない。


Q:なぜこのような店にしたの?
「とにかく入りやすいバーを作りたかったんです。僕の会社員経験とバー勤務経験で言えば、新しいバーを知るには①就職②上司に連れられる、という①②の条件がクリアされてないと行けなかった。街にバーってたくさんあるけど、どこに行けばいいか分からない。①②が無くても行ける店にしたかったんです」
Q:一般的にバー業界って一見のお客さんって多くないの?
「少ないですよ。バー業界的には新規のお客様は1ヶ月に1〜2組来ればマシです。ほとんどが常連さんか彼等から連れて来られた人々です。更に、昔と比べて先輩に連れられてくるという機会も少なくなっている様に感じます。だからこそ、業界ルールを破ってでも、入りやすい店を目指しました」

バーを利用するお客様側がなんとなく感じているルールとマナーの多いバーの世界。しかし、奥田氏はそれを否定した。ワイワイ飲んで、質問し放題の空気。何を注文してもOKな開放的な空気作りを大切にしてきた。「バーに来るからにはある程度(ルールやマナーを)知ってますよね?って空気は出したくなかった。だからメニューも内訳(お酒の説明)入り。お酒に詳しくない人も頼みやすい様に心がけています」

Q:そういえばなぜ店名が「cache-cache」なの?
「cache-cache(カシュカシュ)はフランス語でかくれんぼという意味です。しかも子供の言葉。子供がかくれんぼすれば隠れきれてないような感じがある。目立つ秘密基地という感じの店にしたくて命名しました」

「例えば、嫌な飲み会の後、飲み直そうとしたときに両替町(静岡で飲み屋が集中しているエリア)に行くと嫌な誰かとバッタリ遭遇してしまう、なんてことがあります。その点うちは飲み屋エリアじゃない立地だからそういう事はない。かくれんぼってそういう意味も込めてます」




Q:最後に、現在の目標はありますか?
「自分の周りの世界が平和だといいなって思ってますね。会社員時代と比べると今のほうが圧倒的に充実してる。自分が気持ちよく生きたいと思って動くと、それが周りにも響きますね」
「組織の中で失敗しない企画を考え予算を取るのってしんどいなって感じてました。だったら自分で責任を取るから自分の好きなようにやりたいなって思う」
Q:それって難しいんじゃないですか?
「それはそうだけどね(笑)。でもね、人の金で何かやると既存のルールに従わざるを得ない。自分のお金でやることは自分のルールでやる。これは ※大道芸  のボランティアをきっかけに出会った多くの人から学んだんです

※大道芸ボランティアとは、静岡で毎年11月に開催される大道芸の世界大会「大道芸ワールドカップin静岡」のボランティアスタッフのことである。奥田氏は14年も前からボランティアに参加している。実は彼がバーの世界に入り込むきっかけとなったショットバーコンブレのマスターも大道芸実行委員会の先輩でもある。

ボランティアでは変な人、変わった人、人生の師匠的な人と何人も出会えたという。様々な価値観の人々と接することで奥田氏の特徴である「感覚で人生を決める」という生き方を形成した。生き方の参考になっただけでなく、ここでの出会いが人生に大きな影響を与えたという。

「ルールを守らなくてはいけない、というルールなんて無いんだって事を学びました」



〜おわり〜



こんな生きざまの奥田氏に聞く①!「海外留学したい、でも、なかなか決心が…」
「ちなみに海外に行ったからといって幸せになれる訳じゃないですよ。まず現地へ行ってみてから考えるのも大切。そして「でも」って言ってるうちはそんなに行きたいと思ってないんじゃないの?僕は仕事とかしがらみあったけど「でも行きたい!」と思ったから行きました」

こんな生きざまの奥田氏に聞く②!「自分の店を持ちたいので、アドバイスをください」
「会社員時代と比べて収入が半分になるけど、それでもやりたいと思えるならやっていいと思います。僕自身、会社員時代と比べてお金は減ったけど毎日が気持ちいい。ストレスとお金が反比例してる感じがあります。あと、やってみないと分からないことって必ずあります。行動しないと誰にも理解して貰えない。うまくいったかいかないかは結果の話。だから、やりたいならやるべきです」


casual bar cache-cache facebookページ
https://www.facebook.com/barcache2?fref=ts


(写真/奥田景介、イラスト、文、写真/齋藤洋一)

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